今日は岩見沢に汽車に乗ってお稽古に行った.
汽車は鈍行.時間があるので,思っていることをクドく書いてみよう.
昨日で,ハイポジションのマイナーコードは終わり,今日からメジャーコードを見ているが,全体としてみられる様になった.ハイポジションのメジャーコードを見るが,併せて他のポジションも見ている.マイナーも復習する.お音階もチェック.音階のチェックは大分は早くなった.
要するに,コードを指の形で覚えるのは,雑作もないことである.問題は何と言う音を出しているか,のチェックに時間がかかるのである.例えば,⑨フレットの3弦の音は何か,と言うのに時間がかかる.ラの#であるが・・・レスポンスが早くなった.
コルドバの大聖堂の中
これがクラシック・ギターの基本であり,多くのアマチュアが壁を越えるひとつの試練となるのではないか.
今までいろいろな曲をやった.結局,弾くので精一杯.とても感動を呼ぶ演奏など出来るものではない.
セゴビアや外国人は手が大きいから楽に押さえられて楽に弾けるのだ,という人も多い.手が大きければ,有利には違いない.でも手が大きい以上に,ピタッと抑えら得れるかが,大事だし,何よりも,音楽性であろう.音楽を紡げるか,語られるか,これが大事なのではないか. 手が大きければ,上手なギタリストになれる,というほど,単純で甘い世界ではない.
セゴビアは手も大きいが,彼は音楽を紡ぐことに優れていたのである.それだけの話だろう.
アンドレス・セゴビア(Andrés Segovia, 1893年2月21日 - 1987年6月3日)は、スペインのギタリスト。音楽史研究者やギター奏者から、「現代クラシック・ギター奏法の父」とみなされている。
彼の尽力なしには、クラシックギターがコンサート・ホールに不似合いの、田舎の楽器と見られていただろうと見る向きは多い。彼はギターを、ピアノやヴァイオリンと同じような地位に引き上げようと努力し、世界的に演奏され、音楽学校で学ばれるような楽器にしようとした。また、自ら演奏技巧の上達に励んだだけでなく、教育者として、後進のギター指導にも力を惜しまなかった。
音楽を紡ぐには,自分が今,何を弾いているのか分からなければならないだろう.最低,どの音階を弾いているのか,分からないようではダメ.次は左手は,⑩フレットの3番弦を押さえ,右手は中指でこれをはじき,次は,⑫フレットの5番弦を小指で押さえる,という作業を延々と続けているだけでは,音楽は紡げない.只のタイプライターの早打ち大会になる.
そこから脱したいと思っている.押弦のし難いことにもう悩まず,容赦なく音数を減らそう.それで,余裕が来て,音楽を紡ぐことが出来たら良いではないか.
三線だって同じだろう.三線は唄う,そして弾く.
弾くのは,ギターで言えば,ローポジションのみを単音で弾き,半音もないので楽と言えば楽であるが,これをどんどん練習して余裕を出して,唄う方に意識を廻さなくてはならない.
歌も楽に唄わないと.苦しげに苦しげにでは,いけない.聴いている方も苦しくなるのだ.
このようなことを考えて汽車に乗っていた.
私は何故,セゴビアになれないのか.セゴビアと私の違いは何なのか?
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